【 概 要 】−蓮如上人(室町時代の浄土真宗の高僧、本願寺中興の祖)は本願寺の8代座主に就任したものの、衰微が著しく、青蓮院(京都市東山区粟田口三条坊町)の末寺とされ、さらに青蓮院の本寺には比叡山延暦寺が控えていた為、浄土真宗の寺院として独立を画策した蓮如上人は迫害を受けました。文明3年、蓮如上人は京都を離れ北陸地方の吉崎の地を浄土真宗の拠点として広く教えを広げようとしました。蓮如が吉崎の御坊を建立すると全国から多くの信者や関係者が集まり、わずか数年の内に宿坊が100余戸となり一大門前町を形成しました。文明6年に不審火で多くの堂宇、寺宝が焼失しますが、すぐに再建され浄土真宗の教えは越前、加賀と広まり多くの道場が広がりました。この頃、加賀守護職富樫氏と教徒との間の軋轢が激化し、文明7年には吉崎の地まで戦火が及ぶようになり蓮如はここを脱出し若狭に逃れました。永正3年一向一揆衆は富樫氏を排除し加賀国の実質的な支配を固めると越前に侵攻、越前守護職の朝倉氏はこれを撃退し、拠点になりえる吉崎御坊を破却し廃坊とさせました。その後も蓮如上人の旧跡である吉崎御坊跡を巡る攻防戦が幾度と行われました。吉崎御坊跡は国指定史跡に指定され御坊の本堂跡や蓮如上人銅像、蓮如上人御腰掛石などの旧跡があり、周囲には「吉崎寺」(浄土真宗本願寺派)や「願慶寺」(真宗大谷派)など後継の寺院が境内を構えています。
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