【 概 要 】−熊川宿(福井県若狭町)は古くからの交通の要衝で、南北朝時代に北朝方の足利尊氏(室町時代初代将軍)に従った沼田氏が当地域を与えられ、熊川城が築かれました。熊川城の麓に位置する熊川宿は城下町として町割りされていたようで、宿場内に境内を構える得法寺には沼田氏の供養塔と伝えられる石塔が建立されています。沼田氏は戦国時代まで当地を治めましたが、上中の松沼玄蕃の侵攻により大敗し、熊川城は落城し、この地を去っています。松沼玄蕃は織田信長に従った為、信長の若狭侵攻の際には熊川城で宿泊するなど機能していましたが、丹羽長秀が若狭国に配されると廃城になったと推定されています。天正17年(1589)に豊臣秀吉の家臣で九州平定に尽力した浅野長政が若狭国小浜8万石で配されると、領内整備が積極的に行われ、その一環として若狭街道が開削され、その宿場町として熊川宿が町割りされています。江戸時代に入ると、熊川宿の前面に流れる前川が舟運として動脈として利用され、熊川宿はその最終の川港として、荷物の積み込み、積み出しが行われる経済の拠点となりました。小浜藩では熊川宿を重要視し、藩の役所や御蔵、番所などが設置されました。明治時代に入り、近代交通網が整備されると若狭街道を徒歩で利用する人が激減し、前川舟運も衰退した為、熊川宿の交通の要衝としての重要性が失われました。結果的に大規模な近代化が行われなった為、現在でも街道沿いには良好な町屋建築建築が軒を連ねる町並みが残されました。近年、この町並みの価値が認められ、国の重要建造物群保存地区に選定されています。
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