福井県・勝山市・平泉寺白山神社

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【 概 要 】−平泉寺白山神社は養老元年、泰澄大師が白山神社を創建時に別当寺として開かれたのが始まりと伝えられています(現在の御手洗池から白山大神が出現したとされます)。応徳元年に比叡山延暦寺の末寺になると次第に寺運が隆盛し、白山信仰の聖地である白山頂上への越前側の登拝口の拠点として名を馳せます。所謂白山三馬場と呼ばれる越前馬場の平泉寺、加賀馬場の白山本宮(白山比盗_社)、美濃馬場の長滝寺(長滝白山神社)の1つとして禅定道の拠点となり最盛期には48社、36堂、6千坊、僧兵8千人、寺領9万石を有する一大勢力となりました。源平の合戦では平家側に組し倶利伽羅峠の戦いにも参加、長吏齋明は斬首となりましたが、後に木曽義仲の祈願所となり寺領として藤島七郷を寄進され、文治3年、源義経一行が兄である源頼朝から逃れる為、奥州平泉に下向に平泉寺白山神社に立ち寄ったと伝えられています(参拝した御礼に義経が法螺貝を奉納したとも)。南北朝の動乱では当初南朝側に属していましたが、北朝側の越前守護斯波高経に呼応し藤島城に入り南朝側の新田義貞と戦っています(恵秀律師は南朝の有力武将だった楠木正成の甥とも云われ、境内には楠木正成の墓碑が建立されています)。室町時代は越前守護の朝倉氏の祈願所として庇護され社運も隆盛しますが、永禄12年に朝倉氏と本願寺間で同盟が結ばれた事で関係が悪化、織田信長の越前侵攻にも救援を拒否し朝倉氏滅亡を早めたとも言われています。天正元年、朝倉氏が滅亡すると加賀の一向一揆勢が越前に侵攻、天正2年一向一揆勢が平泉寺の境内を占拠し、多くの堂宇、寺宝、記録などが兵火により焼失し大きく衰退します。天正11年に顕海僧正が再興し、豊臣秀吉や徳川家康、福井藩、勝山藩などが庇護し再び寺運も隆盛しますが、最盛期には程遠かったそうです。江戸時代に入ると旧白山三馬場の間に白山信仰の本山争いが激化し、幕府が調停するまでなりましたが、寛文8年に白山頂上部は幕府の天領となり、頂上本社の祭祀権は平泉寺が獲得しました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、白山神社が独立して平泉寺白山神社となり平泉寺は廃寺となりました。
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