【 概 要 】−一乗谷は古くから朝倉氏の本拠だった場所で、南北朝の時代に既に存在していました。文明3年(1471)、越前国支配の祖となった朝倉孝景が本格的に一乗谷の開発を行い、一乗谷が越前国の政治、経済、軍事の中心的な都市として発展しました。一乗谷は南北約3Km、東西幅約500mの狭小な谷底平野で南側には上城戸、北側には下城戸と呼ばれる、大きな土塁と堀で外部から遮断し、一乗城山の山頂付近には一乗谷城が構えられ、麓には朝倉氏代々の居館が築城されました。一乗谷は比較的京都から近い事もあり、多くの貴族や高僧、学者、文人、商人などが集まり一大文化圏が形成され、最盛期には人口1万人を超えたとも云われています。孝景から数えて4代孝景、5代義景の時代に全盛期を迎え、永禄11年(1568)に後の室町幕府最後の将軍となった足利義昭が義景を頼って一乗谷を訪れています。天正元年(1573)、織田信長の侵攻によりた義景は一乗谷を放棄し一族である朝倉景鏡が守る大野の地に落ち延びましたが、景鏡の裏切りにより自刃、一乗谷は信長の焼き討ちによりそのほとんどが灰燼に帰しました。その後、越前国を任された柴田勝家は北の庄に城を築き、江戸時代の福井藩もそれを踏襲した為、一乗谷はほとんど開発が行われず、奇跡的に遺跡として残されました。一乗谷朝倉氏遺跡は昭和46年に一乗谷城を含む278haが国指定特別史跡に指定され、平成3年に諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、朝倉義景館跡庭園、南陽寺跡庭園が国指定特別名勝に指定されました。現在は武家屋敷の立体復元や英林塚、中の御殿跡、雲正寺地区遺跡、上城戸跡、下城戸跡、朝倉景鏡館跡、西山光照寺跡、御所・安養寺跡などが整備され観光地として多くの観光客が一乗谷を訪れています。
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