【 概 要 】−称念寺の創建は養老5年(721)、泰澄大師が元正天皇の勅願により阿弥陀堂を建立しのが始まりと伝えられています。その後、衰退しましたが正応2年(1289)真教上人(時宗2世)が中興し境内を整備しています。以来、長崎道場として越前地方に大きな影響力を持ち、延元3年(1338)には灯明寺畷の戦いで戦死した新田義貞が埋葬されています。室町時代に入ると、将軍足利家の祈祷所として庇護され寺領が安堵、寛正6年(1465)には後花園天皇の祈願所になるなど寺運が隆盛します。歴代領主も庇護し、永禄5年(1562)には明智光秀が称念寺を訪れ、境内で寺子屋を開いたと伝えられています(明智光秀は美濃の斎藤義龍に敗れると、母親が称念寺の末寺である西福庵と縁があった事から当地に移り住んだとされます)。江戸時代に入ると、徳川家の祖先が新田義貞の後裔と自称(新田家の一族である世良田家の後裔が松平家=徳川家と家系図を書き換えたとされます。)した事から徳川将軍家や親藩である福井藩松平家が庇護し、10代藩主松平宗矩は天保8年(1873)の義貞500回忌に五輪塔(旧墓石を基礎として上部に五輪塔を建立、高さ約2.6m、福井県指定史跡)を建立しています。
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