【 概 要 】−江戸時代後期になると日本の周辺海域では度々外国船が出現するようになり、当時の日本と外国との軍事力の差を危惧した林子平(江戸時代後期の経世論家。「寛政の三奇人の一人)は天明8年(1788)から寛政3年(1791)にかけて「海国兵談」を発刊し海岸防備の必要性を提唱しました。幕府は危険な思想の書物として発禁処分としましたが、幕府内にも大きな影響を与え、海岸防備の機運が高まりました。しかし、当時の老中で海岸防備の必要性を感じていた松平定信が失脚した事で具体的な方針までには至りませんでした。文政8年(1825)にようやく異国船打払令が発令され、積極的に外国船の排除に乗り出しますが、天保11年(1840)に日本より大国と思われた清(中国)がアヘン戦争でイギリスに大敗し屈辱的な条約締結や賠償金が支払われる事態が発生すると当時の老中水野忠邦は異国船打払令を廃止し薪水給与令を発令し、理由も無く外国船を排除するのではなく人道的な支援をする一方で軍の近代化を図り外国に対して隙を見せないような政策に転換しました。丸岡藩砲台はそのような時代背景を持って築かれた西洋式の砲台で、当時の技術を習得した栗原源左衛門が設計しました。丸岡藩砲台の形状は平面が丁度御椀型のように緩やかな曲線を描き、死角がないように多方向5か所に砲眼を設ています。その後、丸岡藩では藩主である有馬道純自ら江戸の海防を担当した江川太郎左衛門から教えを講うたり、越前国ではいち早く軍隊の近代化を図った大野藩の学問所「洋学館」に藩士が入門しています。丸岡藩砲台跡は国指定史跡に指定されています。
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