【 概 要 】−龍泉寺は南朝暦元中3年、北朝暦至徳3年(1386)に越前守護職を担った藤原義晴の庇護の下、通幻寂霊禅師により創建されました。通幻寂霊禅師は南北朝時代の曹洞宗の高僧として知られ南朝暦正平23年、北朝暦貞治7年(1368)に曹洞宗の大本山である總持寺5世に就任し、南朝暦正平25年、北朝暦応永3年(1370)に細川頼之の招きで永澤寺(丹波国:現在の兵庫県三田市)を開山、その後、總持寺に戻り龍泉寺を開山しています。龍泉寺は当地域の曹洞宗の中心的な寺院として、多くの高弟を輩出し寺運が隆盛しますが戦国時代になると一向一揆の兵火により堂宇が焼失し一時衰退します。江戸時代に入ると、初代府中藩主本多富正が再興し、境内を整備するともに歴代本多家の菩提寺とします。本多富正は若くして結城秀康に仕え、秀康が豊臣秀吉の養子時代や結城家の養子時代を共に過し、主要の合戦も随行して功をあげ、秀康が福井藩68万石の大大名になると家老、及び府中城3万石の城主に抜擢されました。秀康が死去すると、福井藩の執政と2代藩主松平忠直の補佐を行うなど信任されています。本多家の庇護のものと再び寺運が隆盛し境内には七堂伽藍が建ち並び通幻派の根本道場として多くの弟子達が修行を行いました。又、「北陸第一関」として永平寺(永平寺町)や総持寺(現在の総持寺祖院・石川県輪島市)に次ぐ格式を得ています。明治時代に入り廃藩置県が施工されると本多家の庇護が受けられなくなり、白雲台(庫裏)を残して解体されました。
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